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グローバルユニオン

2004年7月 第16号
■コメント
 
ITFの近代化

ハロルド・ルイス

ITFの近代化は1944年にロンドンで開催された執行委員会(当時はECと呼ばれていた)に端を発している。第二次世界大戦は終息に向かってはいたものの、V2ロケットが発射され、信念なくして未来を語ることは依然として不可能であった。1942年にエド・フィメンが没して以来、ジャープ・オルデンブロックがITFの書記長代行を務めていたが、当時の執行委員会は、オルデンブロックが作成した極めて急進的な文書を承認するだけの信念をもっていた。オルデンブロックの文書には、平和の提供するあらゆる機会をITFが利用しようと考えるなら、従来の欧州という枠組みに捕らわれず、伝統的なヨーロッパの労組の型にはまらない労組であっても、真の労働組合である限り、ITFに受け入れていくべきだと記されていた。
ITFのグローバル化は、戦後のITF政策の中心になるはずだったが、オルデンブロックが文書を提出した数ヵ月後に平和が到来すると、目の前にあった展望はITFの拡大どころか、存亡の危機だった。ITFを他の国際産別組織(ITS)に「飲み込ませ」、統合し、戦後新たに誕生した世界労連(WFTU)の「労働部」を発足しようという考えを最初に思いついたのは、おそらく英国のTUC(イギリス労働組合会議)だろう。しかし、この考えを強硬に推し進めようとしていたのは、WFTUの中でも共産主義的色彩の濃いグループだった。戦後3年間、ITFの目標は、自由な独立組織として生き残ることに絞られた。加盟組合の圧倒的支持を受け、オルデンブロックはITSのWFTU抵抗運動の先頭に立った。最終的には勝利を収め、1949年に非共産系のナショナルセンターがWFTUから脱退するための道を切り開くことができた。
しかし、ITFが何の犠牲も払わなかったわけではない。WFTUに忠実なナショナルセンターに加盟していたフランスとイタリアの大きな加盟組合を失った。また、オルデンブロックが1949年に創設された非共産系ナショナルセンター、国際自由労連(ICFTU)の初代書記長に就任したため、ITFはオルデンブロックをも失うことになった。
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米国労組の加盟組合

真の意味でITFがヨーロッパの呪縛から解き放たれたのは、米国の巨大な鉄道労働者人口を組織する職能組合の緩やかな連合体である米国鉄道組合幹部協会(RLEA)がITFに加盟した時だ。戦時中は、アメリカの情報機関がRLEAの欧州活動をスタートさせ、支援も行っていたが、戦争の終結とともに、RLEAは国際活動への興味を失っていき、ITFがアメリカへ派遣したミッションは全て逆の効果を生んだ。しかし、米国務省とアメリカ労働総同盟(AFL)が執拗な圧力をかけた結果、RLEAは1947年に再度、愛国心を奮い立たせ、いわゆる共産勢力に支配されたWFTUに対するITFの抵抗運動を支持する決意をした。
同様の熱意ある働きかけにより、米国のその他の主要労組も間もなくITFに加盟することになり、米国のITF加盟人員は、1950年代初頭には、優に100万人を超え、ITFの全加盟人員の約4分の1を占めるまでになった。しかし、スムーズに事が運んだとは言い難かった。当時、米国の2大労組には汚職がはびこり、国内で何の影響力ももたなくなっており、そのうち一方はITFから権利停止処分を受け、もう一方は脱退していった。また別の第3の組合は、カナダで発生したギャング事件の責任を取ることを拒否したことで権利停止処分を受け、第4の組合は、(おそらく不当にだが)労使関係に関するITF政策に違反したとの理由から権利停止に処せられた。時には質的に変化することもあった米国労組だが、いづれにしても、その後のITFの政策および活動の形成過程において非常に重要な要素になっていった。
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反共産主義

TFの欧州加盟組合は、アメリカ人から焚き付けられるまでもなく、冷戦初期の重要な諸問題において、反共産主義陣営を熱烈に支持していた。欧州のITF加盟組合は、マーシャルプラン、NATO(北大西洋条約機構)、ドイツの再軍備、朝鮮戦争を支持し、1956年のソ連のハンガリー侵攻に際しては、徒労には終わったが、国際労働運動による直接行動を呼びかけた。さらに、東側ブロック、特に東ドイツとポーランドで定期的に発生した労働者の抗議運動が抑圧されたことを激しく糾弾した。
当時、緊張は頂点に達し、ITF内部でも、民主主義と労働組合が世界各国で次々と屈服していった1930年代に遡った議論が飛び交った。「自分たちの組合は“赤いファシズム”を容認しない」ドイツのある反ナチの元活動家が1948年のITF大会でこう述べた。自らの立脚点が問われる中、ITFの主流派には、(実際そうした要求もなかったが)細かなニュアンスや加盟組合の資格の問題をとやかく言っている余裕がなかった。
真の意味でITFが試されたのは、指導部が共産党系でありながら、ITFの加盟組合でもあったカナダ船員組合(CSU)が1949年4月にストライキを指令した時だった。このストライキは、無慈悲な使用者による賃下げや組合潰しに対する労働組合の典型的反応なのだろうか。それともマーシャルプランを破壊し、西側陣営の軍事物資輸送を妨害する、世界中で繰り広げられていた共産主義の策略の一部なのだろうか。政治状況がもっと落ち着いていれば、あるいはITFもその両者であったと判断したかもしれない。しかし、英国の港湾労働者が英国運輸一般労組(TGWU)に逆らってCSUに連帯行動をとったため、1949年の夏、イギリス経済は崩壊寸前となり、時の労働党政権も絶望の淵に追い込まれた。  
敵が玄関口まで来ていると考えたITFは、CSUを非難し、CSUとの加盟関係を解消した上で、あらゆる共産主義の策略者や破壊者たちとの全面戦争に入ると宣言した。
ITFの対抗措置は、船員や港湾労働者の間の共産主義活動を調査し、阻止するという役割を担う欧州「自警委員会」によって担われた。時とともに、一部の歴史家の間で自警委員会はグロテスクなほど大きな重要性をもつようになっていき、さもなければ阻止できなかった共産主義の高まりを跳ね返した功績を上げたと信じられている。
しかし、地中海地域、とりわけマルセイユにおける自警委員会の活動は誉められたものではなかった。それどころか、自警委員会プロジェクトは、何らのプラスの結果をもたらさない、不運でマイナス面の多い活動であった。地中海地域での活動は、ITFに殆ど何の成功ももたらさなかったばかりか、委員会の設立当初より、資金援助していたCIA(米中央情報局)に牛耳られていた。
自警委員会は、正式に解散してはいないが、1950年代初頭には無期限の活動停止に入り、二度と活動を再開することはなかった。「自由な」国際労働運動とWFTUの闘争の舞台は、双方ともが相手陣営への進出の希望を見い出さなくなっていたヨーロッパから、次々と植民地から独立する「発展途上の国や地域」へと移っていった。
1920年代以降、アルゼンチンや日本など、非ヨーロッパ地域の前哨地点ともいえる国の組合がITFに加盟したが、大抵はすぐに脱退してしまい、実態を伴って長続きしたのはインドの全インド鉄道員連盟のみだった。しばしば、労働組合は、近代国家インフラの一部と考えられていたため、植民地主義の後退によって新国家が生まれるにつれ、「自由な」国際労働組合とWFTUの両陣営は、新国家の組合の支持を得ようと激しく争った。
ITFにとって、これは政治と産業の双方にとっての使命であり、交通運輸のような国際市場産業では、組合の強化が人権の保障と労働力の安売り防止につながるとの考えによって自己目的化されていった。この点でITFが成功したことは、加盟人員の増加を見れば一目瞭然だ。非ヨーロッパ地域の加盟人員がITF加盟人員全体に占める割合は、1946年には6.8パーセント(これも定かな数字とは言いがたいが)であったが、1964年には26.8パーセントに増加している。
しかし、ITFの加盟組合構成に見られる大きな変化を反映するITFの構造改革は簡単なことではなかった。長年にわたって、加盟組合が支払った加盟費と加盟組合が受けるサービスの間には弁解の余地のない原則の矛盾が存在していた。インドやナイジェリアの加盟組合は、組合員の収入水準から考えれば、英国や米国の加盟組合よりもITFへの支払いは大きかったにも関わらず、より少ない投票権や議席数しか得られなかった。
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地域の拡大

善意に満ちてはいたものの、明らかに庇護者ぶった1956年の妥協案により、執行委員会(EC)は地域から各一名の執行委員を任命する権限を与えられ、これによって地域の組合代表も数名確保された。これら地域の組合は、自分たち自身の投票権によってはこれを獲得できなかっただろう。各地域の加盟組合が自ら選出した代表者を執行委員会(新しくEBと改名した)に送れるようになったのは、ITFが規約を大幅に修正した1962年以降のことである。ITFが非ヨーロッパ地域で拡大するにつれ、加盟組合の間で各地域に地域機構を設けて欲しいという要求が高まっていったが、同時に地域機構にどの程度の権限を持たせるべきか、またその資金は誰が負担するのかといった、避けて通れない難しい問題も浮上してきた。
こうした問題が浮上したのもITFが成功してきたからこそだった。1946年にチューリッヒで大会を行った際にはそんな問題は影も形も存在しなかった。当時は一人を除いて大会に出席する代議員は全員、列車だけで来ることができた。1965年になってようやくITFは、オルデンブロックがその最も苦しい時代から這い上がりながら構想した、真の意味での国際組織になれたと言えるようになった。国内レベルでも国際レベルでも、少なくとも民主主義陣営のレベルでは、この時ほど労働組合の前途が明るく思われたことはなかった。結社の自由と団体交渉権が基本的人権として広く承認されるようになったのだ。これにより、ITFは国際舞台において真に力のある組織へと成長した。ITFと同様に力をつけた非政府組織によって大きく広がった国際舞台において、ITFの貢献は歓迎されたばかりでなく、称賛の的となっていった。
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ハロルド・ルイスは、1977年より、定年退職した1993年まで書記長を務めた。
「率直かつバランスよく」

1993年にITFの書記長を退任して以来、ハロルド・ルイスは常にITFについて書きたいと思ってきた。退職後間もなく回顧録をまとめ始めた。同時に、40年前に中断してしまった大学の勉強を再開することにした。ITFの歴史を記すのであれば、威厳のあるものにしなくてはならない。そのためには学術的な手法に従わなくてはならないと、大学に通いながらルイスは痛感した。
そこで、最終的に大学内に近代記録センター(MRC)があり、ITFの古文書を保管しているウォーリック大学の門を叩き、1945年から1965年の戦後の重要な時期におけるITFの歴史に関する論文を執筆することにした。論文の中心となるのは、ITFの加盟人員と政策、特に冷戦期における政策と活動である。論文中の全コメント、意見はルイスの個人的責任によってなされている。
「できるだけ、『率直かつバランスよく』書くように心がけた」とルイスは言う。「ITFとその加盟組合には、輝きに満ちた面ばかりではなく、暗いエピソードも存在する。優れた史料はごまかしからは生まれ得ない。ITFの近代化の礎を築いた重要な時期の明るいエピソードは、暗いエピソードを補って余りある。」
論文の正式なタイトルは「国際運輸労連(ITF)1945-1965年−組織的政治的詳細分析」であり、この論文により、ルイスはウォーリック大学より博士号を授与された。論文をもとに本も出版される予定だ。
一方、上記の論文と、1949年のWFTUの分裂に関する別の評論が、ITF本部の図書館でも閲覧できる。
論文はまた、ウォ−リック大学のMRC、ボンのフリードリッヒ・エーベルト財団の図書館、アムステルダムの国際社会史研究所にも寄贈された。
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